人と食べ物「動物性のものはほぼつねに嫌なものである」

 

子猫

世の中、料理情報だらけ、料理番組はいつだって大人気。ドラマもマンガも料理ものがひしめいています。どれも、最高に美味しいものを求めています。

とくに、この時期、クリスマスから年末年始にかけては、テレビも雑誌もネット局も、もうひたすらに食べる!食べる!食べる!旅行パンフレットだって、「カニ食べ放題」「韓国で本場の焼肉」等でしょう?

私はそういうのを見ていつもあさましいと思うのですよね。料理だって、全然美味しそうじゃないなあ、と。

どの番組でも、タレント達は、何を食べても大袈裟に「美味しい」と反応。まだ噛んでもいないのに。

 

 

さらに気になるのが、グルメ評論家なる人々の食べ方ですね。ぜんっぜん、美味しそうに食べていない。何をいえば気の利いたコメントになるかしか頭にないでしょ、って感じ。

私が生涯で食べた最高に美味しい料理は、ヴィーガンになる前に食べた、ニューヨークの有名レストランの北京ダックでも、スペインやフランスやギリシアでの立派なフルコースでもなく、また、日本の名の通った料亭のものでもなく、いくら思い出しても、どう考えても、やっぱり、・・・

八ヶ岳縦走中に食べたおむすびと熱々のインスタントコーヒーとか、蝶ケ岳から槍が岳への縦走中に食べたおむすびと熱々のインスタントコーヒーとか、鷹ノ巣山から奥多摩湖までやっと降りてきて食べたカロリーメイトと熱々のインスタントコーヒーとか、、、

・・・あら、山での食事ばかりですね。

だって最高に美味しかったんですもの。朝早くから歩いて登って汗だくになって、あるいは強風や雪に震えながら、鎖場では緊張して、ガレ場では用心して、ときにはカモシカに見とれたり、晴れたガスの合間から見えた下界に喚声をあげたり、そしてやっと目的地について、重たいリュックをおろして、雄大な景色を眺めながらお湯を沸かしておむすびをほおばる。あるいは、ようやく麓のバス道に出て、もう遭難の心配はないと安心して食べる携帯食。これ以上に美味しいものはありません。

北京ダック?キャビア?トリュフ?てーんで比較になりませんな!そもそも、これら、価格を知らなきゃ美味しいとも思わない人が多い食材でしょ?ニャハ

あとは、土づくりからすべて自分で育てた無農薬野菜が最高に美味しいですね。つまり、今の私は最高に美味しいものを毎日食べているってことで、ホント幸せです。

 

 

スティーブン・ピンカー『心の仕組み』(1997年)に、ヴィーガンの私としてはちょっとおもしろい記述がありました。「第六章 情動—遺伝子の複製を増やすために—」の中の「思考の食べ物 なぜ食べ物に対する嫌悪感があるのか」の中の文章です。

嫌なのは動物性のものだ。すなわちまるごとの動物と、動物の一部(とくに肉食動物や腐食性動物の一部)、動物の体が産生するもの、なかでもとくに粘液や膿汁のようにねばねばしたもの、そして何より糞便が普遍的な嫌悪の対象になっている。腐りかけの動物やその一部はとりわけ嫌がられる。これに対して植物は、味が悪いということはときどきあるが、それは嫌悪とは違う。植物が産生するもの—たとえばライマメやブロッコリー—を人が避けるのは、苦かったり刺激が強かったりするためだ。吐き気を催す動物性の産生物と違って、言いようのない不快感や不潔感はない。(中略)

嫌悪感をもよおすものはつねに動物性であるというだけでなく、動物性のものはほぼつねに嫌なものである。動物の体の一部で嫌悪感を起こさないもののほうが例外的だ。人はあらゆる動物の身体部位のなかで、ごくごくわずかな部分だけを食べ、残りの部分には触りもしない。

訳:山下篤子 ちくま学芸文庫〈下〉ISBN:9784480095015 page 157-158

【注】太線nekohon

ピンカーは、ヒトが動物性のものに対しこれほどの嫌悪感を抱くのは、目に見えない汚染物、「子どもたちがバイキンと呼ぶもの」に対する警戒心によると説明しています。動物性の肉にはなにが潜んでいるかわからない。見えるサイズの寄生虫から、顕微鏡でなければ見えない病原菌まで。薬も病院も無かった原始時代においては、ただの下痢でも命取りとなりました。だから子供は、親を毒見役とし、食べて大丈夫なことが証明された、ごくごく一部の限られた部位を限られた方法でしか食べないことを「学ぶ」というのです。

それはつまり、もし親から学ばなければ、ヒトは肉に対しては嫌悪感しか抱かない、ということなのかもしれません。

 

 

ご存じの通り、日本人は長い間、あまり肉は食べませんでした。

あくまで「あまり」です。食べなかったとはいいません。厳格な僧侶等はともかく、魚はもちろん、鳥獣肉もけっこう食べられていたようです。食べられていたからこそ、宗教に熱心な天皇などが肉食禁止の御触れを繰り返し出したりしなければならなかったわけで、それでも山の民をはじめ民衆はけっこう食べていたようです。

とはいえ、表向きは、鳥獣肉は食べない。それが日本古来の文化ですよね?なのに、なぜ現代はこれほど「肉!肉!肉~~!!」になってしまったのでしょうか。

 

 

日本が肉だらけになってしまったのは、明治の文明開化、さらに敗戦後のアメリカ崇拝等による現代教育の結果以外の何ものでもないと私は思うのです。私の母親もそうでした。「お肉だけは食べなさい」が口癖で、毎日必ずなんらかの肉。多分私の年代としては、平均以上に肉を消費する家庭で育ったと思います。  

が、十数年前のある日、私は突然肉食を止めました。直接のきっかけはペットフード。

よく覚えていませんが、2008年の夏ごろだったと思います。ネットで箱買いしたキャットフードを開封しながら、不図、

「動物が好きと言いながら、この肉の量。これではこの家は死体だらけも同然ではないか?」

と怖くなったのでした。当時は畜産業の悲惨さも、毛皮産業の惨たらしさも、その他の動物搾取も何も知りませんでしたけど、それでも身の毛のよだつような恐怖感を感じたんですよね。ただただ、あの「肉」の量に圧倒されて。

 

 

そのとき冷蔵庫に残っていた動物性食品を食べきって以来、スッパリ肉も魚も止めてしまいました。止めてからヴィーガンという生き方について少し学び、卵や乳製品もすぐに止めました。バニラアイスクリームを除き・・・これだけは大好きで簡単には止められなかったんですよね。でもそれも、豆乳やココナッツミルクでそれらしき味を手作りできると知り、2009年元日から全部止めた、と、こちらは日付も覚えています。

でも、世の中を見渡せば。

日本の伝統文化ともいえる「おせち料理」さえ、肉・魚・肉・卵・肉・海老・肉・・・なんじゃこりゃ。

 

 

 

さらに仏教もです。

数か月前に、この地方ではそれなりに知られた真言宗のお寺を私も観にいこうかと公式ホームページを見ました。そのお寺には一泊コースなんてものもあります(私は行くとしても短時間の日帰りですが)。

そしたら、なんと

住職自ら軍鶏を一匹丸ごと調理:○○寺では、地元○○農場で大切に育てられた極希少な軍鶏を一匹丸ごと仕入れています。」

メニューの写真も載っていましたが、見事に、どのお皿にも肉、肉、肉!

おどろきました。僧侶って殺生を禁じられているのではなかったの?精進料理じゃなかったの?

よーく見たら、下の方に「菜食も用意できるがその場合は事前予約を」なんてコトも書いてありましたが。なんだかなあ。

僧侶が肉食をする、たとえば法事の後に食事に招かれてそこで肉が出て、などの場合なら今の時代はまだ仕方のない部分はあるかもしれません。現代の日本の宗派のほとんどは、修行場にこもっての修行の間とか以外は普通に肉・魚肉を食べるようですし、そもそも古来の仏教では、自ら殺生して食べることは禁止されていたけれども、お布施等でいただいた肉は食べてもよかったようですしね。

でも、やっぱり、ねえ?《僧侶がお寺で堂々と自ら鶏をさばいてそれを宣伝の目玉にするってどうなのよ》って思わずにいられません。宿泊する人達も、あえてお寺経験を選ぶような人達なんですもの、本物の菜食精進料理を食べたいとか思わないの?血なまぐさいものを食べて御利益あるの?

・・・とさらに検索してみたら、ある真言宗寺では、小学校高学年の子供たちを集めて、その目の前で「鶏の屠殺(とさつ)をやって見せ、その鶏を調理して」みんなで食べる、ということをやっているとか!で、そんなことをする理由が、スーパー等に並んでいるきれいなお肉の「そこに至るまでの過程を知ることもとても大事なことだと感じます。」だからだそう。

いえいえ、これこそまさに、殺生の禁を犯した大罪じゃないの?僧侶が絶対にしちゃいけないことじゃないの?

 

 

 

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