夏目漱石【句】
【文献で詠われた猫たち】シリーズ。
夏目漱石
日本で一番有名な猫は、なんと言っても、夏目漱石の『吾輩は猫である』の猫君ではないだろうか。
その『吾輩は猫である』にはモデルとなった猫がいた。 小説と同じく名無しだった。 全身真っ黒な黒猫と言われているが、夏目伸六氏(漱石の次男)は、ごく普通の縞猫だったらしいと書いている。
“らしい”とは、次男といえども直接その猫を覚えているわけではない、母(漱石の妻鏡子)が縞猫だと言った、ということである。
真っ黒な黒猫と言われるゆえんは、夏目鏡子夫人の談話を松岡譲が筆録したという 『漱石の思い出』の中で、漱石家出入りの按摩の婆さんが、
「奥様、この猫は全身足の爪まで黒うございますが、これは珍しい福猫でございますよ」
と言ったからだそうで、この言葉は印象的だから、全身真っ黒といわれるのだろう。 が、その会話にすぐ続いて、
「この小猫の毛並みというのが、全身黒ずんだ灰色の中に虎斑がありまして、一見黒猫に見えるのですが、・・」
という文章があり、さらに上記「普通の縞猫」との言葉もあることから、
黒猫といっても普通イメージされる漆黒の黒猫ではなく、今の明るい電灯の下でみれば、
むしろ濃い色の縞猫というべき毛並みだったのではないだろうか。
さて、その猫君は、残暑厳しい秋の日に、名無しのまま、裏の物置のへっついの上で、ひっそりと亡くなった。
漱石は
『妻はわざわざ其の死態(しにざま)を見に行った。夫れから今迄の冷淡に引き更えて急に騒ぎ出した。
子供も急に猫を可愛がり出した。』
と書いている。
そして、裏庭の桜の木の下に埋めてやり、白木の角材に漱石自ら「猫の墓」としるし、さらに
- この下に稲妻起こる宵あらん
という一句をしたためた。
漱石は、親しい弟子達に、猫の死亡通知も出している。 葉書の周囲を墨で黒く縁取りした自筆の死亡通知である。 その文言は
辱知(じょくち)猫儀久々病気の処 療養不相叶(あいかなわず)昨夜いつの間にかうらの物置のヘッツイの上にて逝去致候
埋葬の儀は車屋をたのみ箱詰にて裏の庭先にて執行仕候(つかまつりそろ)
但し主人『三四郎』執筆中につき御会葬には及び不申候(もうさずそろ)
以上
というものだった。 日付は(明治41年=1908年)9月14日、文面に「昨夜」とあるから、猫君の死亡日時は13日晩ということになる。
その後、妻鏡子は、毎月13日を猫の月命日とし、その日には、鮭の切り身と鰹節飯を欠かさずお供えしたという。
なお、漱石の猫の死にちなんで。
松根東洋城は、その時伊豆は修善寺にいた高浜虚子に、猫の訃報を知らせようとこんな電報を打った。
- センセイノネコガシニタルサムサカナ
それに対する虚子の返電
- ワガハイノカイミヨウモナキススキカナ
吾輩の戒名も無き薄(すすき)かな
また、鈴木三重吉からは
- 猫の墓に手向けし水の(も)氷りけり
寺田寅彦からは
- 蚯蚓(みみず)鳴くや冷たき石の枕元
- 土や寒きもぐらに夢や騒がしき
- 驚くな顔にかかるは萩の露
などの句が寄せられた。
余談ついでに。
この寺田寅彦は『吾輩は猫である』に出てくる理学士、水島寒月のモデルとなった人物である。 漱石自身が、寅彦に宛てた葉書の中で
『・・・時に続々篇には寒月君に又大役をたのむ積りだよ』
と書いているくらいだから、猫君の毛色と違い、こちらは確かな話だ。
夏目漱石 その2
漱石が詠んだ句で、猫が登場するものです。
明治29年(1896年)
- 里の子の猫加えけり涅槃象
明治31年(1898年)
- 行く年や猫うづくまる膝の上
明治38年(1905年)
- 朝がおの葉影に猫の目玉かな
明治40年(1907年)
- 恋猫の眼(まなこ)ばかりに痩せにけり
明治41年(1908年)
- この下に稲妻起こる宵あらん
『吾輩は猫である』のモデルとなった猫の墓に書いた句。
明治44年(1911年)
- 蝶去ってまた蹲踞(うずくま)る小猫かな
大正3年(1914年)
- ちらちらと陽炎立ちぬ猫の塚
夏目漱石について
1867年~1916年。 本名金之助。 東大卒業後、松山中学校教諭、五高教授を経て1900年にイギリス留学。 帰国後、一高教授・東大講師となる。 1905年、『吾輩は猫である』を発表。 1907年、教師を辞めて朝日新聞社に入社、日本文学史上に残る名作をいくつも残した。
管理人の私見では、漱石こそが日本一の作家です。