ラッキーな子といわれてモヤモヤ

夏の連休といえば必ず思い出すのが、虎太郎のこと。

コタを見つけたのは2018年の連休明けでした。カラスが変な飛び方で路上に舞い降りて、なんだろうと見たら、子猫が轢かれていたのでした。かわいそうに、と思った瞬間、その子猫がかすかに動いた!まだ生きている!頭で考える前に体が動いて子猫を拾い上げ、そのまま動物病院へ駆けつけました。まさに間一髪!そのときの虎太郎は、片腕はねじ切られ、脇腹にも大きな裂傷、ほか全身傷だらけ、脱水もひどい。よくぞ助かったと思います。

誰かにその時の話をすると、相手は必ず言います。
「なんてラッキーな猫!ほんまラッキーな子や!」等。

でも、正直、私はコタを「ラッキーな子」といわれるたびに、内心モヤモヤ。

三本足の子猫、虎太郎

たしかに、あの時私が通りかかったのはラッキーでした。でも、それまでは?ほんの子猫が山奥に捨てられた挙句、車に轢かれて片腕をねじ切られ、獣医師の話では「かなり長い間、おそらく一晩中」アスファルトの上に横たわって苦しんだのです。これのどこがラッキー?めちゃくちゃアンラッキーじゃないの?

コタを人間の子供に置き換えてみれば、私の気持ちもよくご理解いただけると思います。もし、人間の子が、わずか3歳で親元から連れさられて、見も知らぬ山奥に捨てられ、車にひき逃げされ、片腕がもがれ、脇腹にも大きな裂傷を負ったまま、一晩中道路に放置されていたとしたら?翌朝になってやっと村人に発見され、その後はその村人の里子に迎えられたとして、その子に対する第一感想は「なんてラッキーな子」となりますか?ふつうは「なんて気の毒な子」じゃないでしょうか?

幼すぎる時期に親から引き離されて山奥に捨てられたこと。車に轢き逃げされたこと。片手を、外科手術ではなく、タイヤにねじ切られて失ってしまうこと。そのまま何時間も路上に放置されたこと。どれひとつをとっても、人間なら「不幸」です。とても不幸でアンラッキーです。

三本足の子猫、虎太郎

でも、猫なら、それらの不幸成分はサクっとスルーされて、間一髪で救助された点だけが注目されて、「なんてラッキーな」。

それはつまり、無意識下に、人間の子供はめったに捨て子されないが、子猫が捨てられるなんてよくあること。人間の子供が轢かれるのは可哀想だが、子猫なら仕方のないこと。救助もされず轢き逃げされるのは人間の子供なら許せないが、子猫ならありがちなこと。その後通りかかった人もいるだろうに朝まで路上に放置されるなんて、人間の子供ならあり得ないことだが、子猫を病院に連れて行く人は少ないよね、連れて行ってもらえてラッキー♪・・・みたいな通念、私から言えば「種差別」があるからではないでしょうか。

三本足の子猫、虎太郎

「種差別」なんて大袈裟な、と思われた方は、もう一度よく想像してみてください。3歳の子供が、車に轢かれ腕が千切れるほどの大怪我を負って一晩中放置され、翌朝やっと救助されたというニュースを聞いたとして、あなたのその瞬間の最初の感想は「かわいそうに」ですか?「助かってラッキー」ですか?

「かわいそうに」ではないでしょうか。

人間の子供なら、「救助された」という点はあまり重視しないのではないかと思います。だって人間の子供なら救助されて当然。当然すぎて、救助が遅れたことに憤りを感じることはあっても、「救助された」ということ自体をラッキーな事だなんて思いつきもしないから。

でも、猫の場合は、まず「救助された」点が頭に残って、第一声が「なんてラッキーな猫」。

人間に限らず、どんな命も「助けて当然」な世の中に早くなってほしいなあ。

三本足の子猫、虎太郎

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