お婆さんとタヌキ

「猫サイトなのにタヌキ?」なんて言わないでください。

そもそもネコとタヌキは縁の深い動物なんです。 どちらも丸っこい体つき。 どちらも化けると言われていました。 また昔の中国では、狸と書いて猫の意味もありました。 家狸、狸奴などの使用法が知られています。 昔の人達は、今のように、動物たちを厳密に分類してはいなかったんですね。

日本でイヌ科のタヌキとイタチ科のアナグマが混同されてどちらもムジナと呼ばれていたように 昔の中国では猫と狸は混同されていたようです。

が、これは、日本の話です。 それもわずか2年ほど前の。

「おるか?おらんか?」
玄関先で人声がしました。 このように呼ばわるのは、「上の家のお婆さん」です。 上の家とは、私の家よりひとつ山よりの農家のことです。 昭和ヒトケタ生まれの方ですが、まだまだ元気です。

私が玄関の戸を開けると、かなり慌てている様子。
「あのな、狸が降ってきてな」
「え?」
「狸がな、降ってきてな、あんた、何とかならんやろか?」
「狸が降ってきたんですか?」
「そうや、こんな、大きな狸が、降ってきたんや。こんな、大きな狸が」
なんの事か分かりません。
「あの、狸が出たんですか」
「古い家の方や。なんとかならんか? 私は怖くて」
どうもよく分かりませんが、どうやらタヌキが出たらしい。 タヌキが家の中に迷い込み、どこかに隠れてしまったのでしょうか。
「あんたがダメなら男の人に頼むけどな、男の人は狸を殺すでな」
ここでいう男の人とは、この村で生まれ育った男性諸氏のことです。
男は狸を殺すの一言で、私は、何が何でも私が助け出さなければ、と思いました。

「その狸は今、どこにいるんですか」
「古い家や。あんた、見てくれるか」
古い家とは、築100年の合掌造りの古民家のことです。 今はこのお婆さんが物置兼作業場として使っています。

とりあえず、野外作業用の革手袋を持って、お婆さんの家にいってみました。

一歩、家の中に足を踏み入れた私は、驚きました。 確かにタヌキが‘降ってきている’!

タヌキ手書き

正確には、タヌキが天井板をぶち破って、ぶら下がっていたのです。

大きなタヌキでした。 トラバサミに左前足の指を一本、挟まれていました。 挟まれたまま暴れたせいか、天井板が割れたようです。 タヌキの体は穴から下に落ちましたが、トラバサミから伸びている鎖が 天井裏のどこかにつないであるのか、それとも梁にからまったのか、とにかく、 トラバサミに挟まれたまま、タヌキは宙ぶらりんにぶら下がってしまったのです。

タヌキは非常に興奮していました。 牙をむいて怒っていました。 私も途方に暮れました。

が、途方に暮れている暇なんかないのです。

トラバサミに挟まれた指を、1秒でも早く解放してあげること。

これが最優先事であることは間違いありません。 このままぶら下がった状態に放っておくことはできません。

私は覚悟を決めて、野良猫達に対するときと同じ方法を取り始めました。 そうです、まずタヌキに語りかけることから始めたのです。

「かわいそうに、痛い痛いなのね? お手々痛い痛いでしょ? 外してあげるから、大人しくしてくれる? 私は味方よ、安心して。 大丈夫、怖くないから。 良い子、良い子。 かわいいタヌキちゃん」

意味のないことを、意味以上に気持ちをこめて、 優しく静かに語り続けました。 そして、ゆっくりゆっくり近づきました。

それから、手を伸ばして、トラバサミを触ろうとしました。

タヌキは激しく唸って噛みつこうとします。 私はまた語りかけました。 そして、まず牙の届かない、お尻のあたりをそっと撫でました。

「良い子ね。 怖くない、怖くない。 大丈夫だから。 外してあげるから」

タヌキはがっと見開いた目で私をにらんでいましたが、・・・

驚いたことに、ふとそれが和らぐと、 突然大人しくなりました。 私の気持ちが通じたのか、それとも観念してしまったのか、 とにかく攻撃を止めたのです。

私はもう一度トラバサミに手を伸ばしました。 今度はタヌキも怒りません。

背伸びしてやっと届く位置にそれはぶら下がっていました。 バネのところを強く押せば開くことはわかっているのですが、 頑丈な鋼鉄の顎は私の力ではなかなか開きません。 よく見ると、錆が浮いた古い古いトラバサミです。 錆びてバネが堅くなっているのかも知れません。

ペンチかスパナを取ってこようと、一度家に戻りました。 すると都合が良いことに同居人が戻っていたので、応援を頼みました。

私が、挟まれた指に体重がかからないよう、タヌキのお尻を持ち上げている間に 同居人がペンチでバネを開きました。 タヌキがすとんと私の腕の中に落ちてきました。

タヌキを抱きかかえた私がその瞬間に思った事は 「ビクやおつうより重いがトロよりはずっと軽い」でした。 野生のタヌキとしては、最大級の子でした。

タヌキがまた暴れ始める前に、私は窓辺に駆け寄りました。 タヌキは理解してくれました。 私の腕の中から庭に飛び降りると、一目散に逃げていきました。

挟まれていた指は多分壊死してしまうでしょう。 が、指一本くらいなら、タヌキは助かるでしょう。 山の生き物を、無理矢理ケージに入れて獣医通いさせるよりも すぐ山へ放してあげた方がストレスが少なくタヌキの為にも良いだろうと 私は思ったのでした。

おばあさんは一部始終を、遠くから見ていました。
「ようあんた怖くなかったなあ。噛みつかれへんかったか?」
「大丈夫でしたよ。大人しく抱っこされました」
「不思議やなあ。あんたなら助けてくれるとわかったんやで、きっと。」
「助かって良かったですね」
「でもなんでワナなんかあるんやろ。うちは知らんで。全然知らんで」
「お宅のワナではないんですか」
「知らん、知らん。そんなもん、知らん」
「じゃあ、どうしてお宅の天井裏からぶら下がっていたんでしょう」
「昔お父ちゃんがかけたんやろか。かけてへんと思うけれど」
この家の‘お父ちゃん’は、亡くなられて10年以上になります。 そして、お婆さんは、
「狸は恨んでるやろな。私に化けて出てきぃへんか?」と、真顔で恐れています。
「大丈夫ですよぉ、助けたんですから」
「でもワナがもしお父ちゃんのやったら・・」
「助けたのですから大丈夫です。男の人を呼んで殺させたなら、化けたかもしれませんけれど」
「そうや。そうやな。大丈夫や」
お婆さんはようやく安心したようでした。

山へ逃げていったタヌキ君。 今頃はどうしているでしょうか。 まだ生きているでしょうか。 もう二度とトラバサミなんかにかからないように。

私にとってこの出来事は、 野生のタヌキと語り合い、野生のタヌキを抱っこできた、珍しい体験でした。

タヌキ